山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

断捨離もミニマリズムも風水も言い訳としてのツールだと思う

戦後しばらくして日本には、色々な生活法みたいなものが発生している。その中に物を整理整頓して減らそうというものがある。

古くは整理整頓術だとか風水、最近だと断捨離やミニマリズムなどが存在している。それらの方法は間違ったことは主張してない。好みの問題って部分はあるけど、書かれているのは普通で当り前のことばかりだと思う。

物を減らしたほうが暮しやすいってのは当然で、ハサミが1000個ある生活と、ハサミ3つくらいの生活、どちらが暮しやすいのかというともちろん少ないほうである。刃物屋さんであったり、ハサミが趣味なら別だけど、普通の場合は適切な量だけハサミがあるほうが暮しやすい。当り前としか言い様がない。

こういうことは手工業から近代的工業に移行し、物質の生産量が増え始めた頃から色々な国で主張されている。もちろん日本にもそういう考え方は明治時代からあった。万国共通の真理である。

様々な方法を実行するのは良いんだけど、私があまり好きじゃないのは、日本だと言い訳のためのツールになっちゃってるってところである。

言い訳のためのツールってのがよく分からないかもしれないので実例を出すと、家にある使っていないタンスを捨てたいと思うとする。しかしながらタンスは破損してなくて12分に機能する。そうするとこれを捨てるのはもったいないという気持が発生する。自分には発生しないかもしれないけど、同居人がそう思うかもしれない。タンスくらいさっさと捨てりゃいいんだけど、これがなかなか出来ない。

ところが使わないタンスをこの場所に置いておくのは風水上あまり良くないっていう理屈があると、自分やら他人を納得させることができる。だからタンスを捨てることができる。捨てないことはタンスに執着していることであり、それが心の重荷になり身軽に生活できなくなってるっていう理屈でもいいし、タンスを捨てて物を削ぎ落すことによって本当の人生が発見できるとかいう戯言でもなんでもいい。とにかくそういう理屈がないと普通に生活を改善することができない人々がわりと多い。

こういう言い訳やら理屈をスッ飛したほうが効率が良い上に個人のパフォーマンスを限界まで引き出せることは確かなわけで、私は残念だなって思う。

物を減らすってことだけに限った話ではなくて、例えば家事の外注だとか食器乾燥機の導入とか、なんでもかんでもそうだと思う。普通にこっちのが便利だからそうするってことがなかなか出来ない。絶対にコスパとか言い出す奴がいる。

これが戦前だとちょっと違っていて、普通に最高の暮しをしたいってのが通用してた。

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そこには理由はないし、理屈もいらない。良くなりたいからするだけである。

もちろん当時もやっぱり不合理な人間がいたり、老人とかの頑固な奴らもいたけれど、国全体として俺らハッピーになりたいからもうちょっと良くしようぜっていう理想やら希望があった。

なんでそんなことになってしまったのか? 私は簡易生活に興味があってわりと詳しいので、簡易生活だけに限ると戦争中の物資欠乏が原因だと思っている。

簡易生活には必要なものだけを手許に置いておいて、虚偽虚飾のための物質は排除しようっていう考え方がある。もちろん鶏を飼って卵を売って金儲けをしようだとか、椎茸を栽培すると得だとか、今とは大分違うところもある。

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あー兎を育てて毛皮にして売るとかもあったな、そういった現代とは似わない事柄はあったにしろ、無駄なものって無駄だしより良い暮らしをしたいよなっていうのが簡易生活の考え方だった。あんまり関係ないけど、科学に希望があったりした。

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ところが戦争が始まると物資が欠乏する。無駄をなくすもなにも、無駄なものなんか手に入らねぇよっていう時代になってくる。こうなると今あるものを保持する方向に進んでいく。この時に役立つのがその辺りの紙を保存しておいて再利用するだとか、貧乏クセー考え方である。実際に役に立たないんだけども不安すぎるからゴミを溜め込んでおくと安心する。

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葉書を集めて手文庫を作るのが悪いのかっていうと別に良いんだけど、今なら100円ショップでプラスチックの入れ物を買ったほうが早いと思う。入れ物が必要なのに葉書を集めるところから始めるってのは、かなりの狂気があるし不合理だと思う。だけど不合理にすがるしかない時代もあった。こういうのってのは仕方ない。そしてその不合理は長く生き続ける。ビンビールのフタを溜め込んでたバアさんとかはこういう習慣が染み付いてたんだと思うし、今もグッチ?みたいなのの紙袋を使い続けてる人とかいて戦時中の風格がある。

こういう考え方が戦争の少し前から盛り上がったことは確かなものの、その萌芽は簡易生活も持っていて、二宮尊徳や大原幽学などの農民指導者の考え方も取り込んでいた。節約術として廃品利用も流行している。明治や大正時代でもやっぱりどんよりした部分やら、ジメジメした部分は存在した。あと戦争中や戦後、そして昭和の出来事については私はあまり知らない。色々なことを経て今の日本になってるのが当たり前なわけで、今の状況ってのは日本に住んでいる人たちが選んだことなんで、これはこれでいいんだと思う。

それでも私は言い訳としてのツールが必要な人々よりも、明治大正の一部の人々が持っていた俺たちは良くなるんだからお前らは黙ってろっていうカラっとした考え方がすごく好きです。歴史に『もしも』はないとは言うけど、簡易生活的な考え方がもうちょい上手に発展してたら日本の社会の有り様は変っていたような気がしないでもない。