かって一人の男がいた
大正7年、第一次大戦等の影響で物価が高騰し、庶民は生活難に陥っていた。7月22日には富山県で米騒動が起きると、それに呼応するように米の安売り要請運動が全国各地で繰り広げられることとなる。
時の政府は効果的な打開策を見出すことができず、手を拱いているばかり、そんな中で一人の男が静かに立ち上がった。
その名も赤津政愛(あかつせいあい)である。
彼が提示した解決方法は単純明解、米が高いなら他のものを食べればよいといったものである。有名な「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」にも似ているが、日中戦争の際にも食料難から節米運動というのが起きている。こちらも米以外のものを食べようという運動だ。
節米運動は、日中戦争時にいきなり発生したものではない。実は前述の米騒動をきっかけに、代用食の探究が始まった。つまり赤津の発想は特に珍しいものではなかったということになる。
赤津政愛という男が偉いのは、大正3年というかなり早い時期に代用食の開発に着手していたこと、そして自らが率先して実行し、ついには一日十銭で暮せるようになってしまったという点である。大正時代の十銭は、今でいうとおおよそ180円くらいだと考えてもらえれば良い。
赤津の研究
そもそも赤津が節米の研究に着手したきっかけは、米騒動とはなんら関係ない。また節約のためでもない。赤津は自身の人格を向上させようと、代用食の研究に没頭していたのである。
当時、簡易生活というのが流行していた。お金を使わず、物を持たず、質素に暮すことで人格を向上させようという運動だ。キリスト教の考え方が基盤となっていて、ソローの森の生活などにも簡易生活の影響が見られる。

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断捨離、シンプルライフ、丁寧な暮らしのご先祖様にあたるものが、簡易生活だと考えてもいい。
ただしこの運動、能書きばかりで実行する人は、ほとんどいなかった。なぜ実行する人が少なかったのか説明すると、要するに面倒くさくてとても苦痛だからである。現在ならば、簡易生活と豊かな生活を同時に実行することができる。しかし当時はコンビニもなければ、冷蔵庫すらない。LEDなどもちろんない。調理をするにも大掛かりな設備が必須だし、移動手段にも乏しい。今とは違い豊かに生活をするためには、物を持たなくてはならなかった。物が少ないということは、生命の危機に陥りやすいとすらいえる。想像しにくいだろうが、そういう時代があった。
大昔に人々が妄想した簡易生活は、文明の進化によって今ようやく実現されつつある。もっとも今の簡易な生活の後ろには、昔とは比べものにならない程の複雑なシステムが密んでいる。それのなにが簡易生活なのかといった見方もできることだろう。
この様に簡易な生活というのは、今も昔も道楽の一種でしかなく、人を救うようなものではない。
しかし赤津は本気であった。簡素で安く健康を害さない食材を探し出し簡易生活を実現するため、赤津政愛が向ったのは貧乏人の家だった。米など買えないくらいの生活をしている人々から、米なしで生きていける方法を学ぼうというのである。この発想からも分かるだろうが、赤津政愛という男は、かなりの変人だった。
現代の貨幣価値でおよそ月収17万円の収入で、家族8人なんとか生活している守衛さん、鉄工所の見習い青年、病人を抱えた官吏などから麦飯を食うことを学ぶと、赤津は早速麦飯や麦粥を食べる生活を始める。とにかく自分で実行するというのが、彼の流儀だった。
ちなみに赤津の家には書生(住込みで家事手伝いをしながら学校に通う人)がいたのだが、この男は美味いものが好きだった。彼は麦飯など食いたくないと、普通に白いご飯を食べている。雇い主の赤津は、文句など言わない。自分だけが黙々と麦飯を食べ続ける。
これに飽き足らず農村を巡ってみるも、思ったよりも文化的で豊かな生活をしている。米など食べ放題であるから、全く参考にならない。ようやくとある寒村に辿り着き、お百姓さんからさらさ飯というものを教えてもらえた。これは米と麦、そして大根の葉っぱを混ぜるというもので、聞いたその日に木賃宿(食料持ち込みの安宿、調理環境がある)で実行するが、安宿に泊まるような人々の口にも合わない味だった。作ってしまった赤津は、我慢して三杯は食べたが、これじゃ駄目だと諦めてしまう。
赤津は現実主義者であった。美味いものを食べようと思えば食べられる時代にあって、不味いものなど食べ続けることは出来ないと知っていた。だからこそ、さらさ飯は実用的ではないと判断できた。
その後も山深く分け入り未知の植物を見付けようとしたり、東京の貧民街を巡り歩いては、米の代りになるようなものを探し続けたが、決定的なものが見付からない。
この頃には赤津が麦飯を食べはじめて、すでに二年の時が流れていた。
オカラを発見する
そんな生活の中で赤津は、卯の花(オカラ)だけを食べ続けているのにも関わらず、頑強な身体を持つ貧民街の人々と出会う。そこで赤津はオカラを代用食としてはどうかと考え、卯の花飯というのを試みている。これは米と卯の花、同量を炊くというもので、もちろん美味くはない。食べれば食べるほどに、米の美味さが懐しくなるような味だった。例の書生はもちろん白米、それを横目に赤津は卯の花飯を食べ続ける。
赤津は自分ですら我慢すれば食べられるといった品質のものを、他人に食べさせるというのは現実的ではないと知っていた。だからこそ、自分の食事を書生に強要しない。赤津は誰でも美味しく食べられるような米の代用品を探し続けていた。
とある老人から聞き出したのは、餅に卯の花を混ぜるというレシピ、実行するとなかなか美味い。これは良いと数日は続けるも、赤津は胃腸を壊してしまう。
なんとかならぬかと卯の花のことばかり考え続け、美味くもないものを食べ続けるうち、とうとう赤津は鬱病寸前に陥ってしまう。
しかし赤津はしぶとかった。この危機も、古書を紐解き保寿散という薬を発見して乗り越える。これは黒胡麻と胡椒、そして蜜柑の皮とダイダイの皮、麻の実を混ぜたものだそうだ。飲めば気分が爽快になるそうだが効果の程は保証できないが、とにかく赤津は元気になった。
復活した赤津は、不味いものを食うために薬味の研究にも没頭し、もっと良いものがあるかもしれないと、ありとあらゆるものを米に混ぜては実験、時にはワラ餅すら食べている。ワラ餅というのは水に浸し続けたワラと米糠を混ぜた餅だが、もちろん美味いはずがない。木の実のみ食べる仙人の話を聞くが、これは実行できないと落胆する。
やはり卯の花だと、卯の花飯を食べ続ける赤津だったが、どう考えても美味くはない。我慢をしながら食べている。これまで発見した代用食は、どれもこれも常食に耐えるようなものではない。
ある日のこと、餅がダメならパンはどうだと思い付く。ものは試しとばかりに小麦粉を購入し実験を開始するが、どうも赤津という人は料理はあまり上手ではなかったようだ。彼は卯の花に小麦を適当に混ぜ、そのまま焼く。これではパンになるはずもない。当然ながらペンペラの、伸びない餅のようなものが焼き上がる。
ところが食べてみると、思いの外に美味い。これまで食べ続けてきた麦飯やオカラ飯とは、比べものにならないくらいに美味である。
例の書生に食べさせてみても、評判が良い。ついに書生も研究に参加し始める。この書生、赤津と違い美味いものと料理が好きだったようで、書生の参戦でレパートリーが一挙に増える。焼いたりおはぎにしてみたり、雑煮もどきを作ってみたりすると、やはり美味い。二人はこれを卯の花餅と名付け喜んでいた。
二人の卯の花餅生活は、三年も続く。全く不満がないし飽きることもない。
そんな生活の真っ只中で起きたのが米騒動、窮民の困却を見るに見かねた赤津政愛が立ち上がる。米より卯の花餅のほうが美味いじゃないかと、世間を啓蒙し始めたのである。
手始めに卯の花餅の普及のため新聞記者を呼び集め、試食会を開催、いくつかの新聞社が卯ノ花餅の記事を掲載している。続いて卯の花餅のガイドブック『一日十銭生活 実験告白』を出版する。『一日十銭生活 実験告白』は、庶民のことなどなにも知らない、お金持ちで教育のある者による、想像だけで書かれた書物ではない。実際に三年間、卯の花餅を食べ続けた赤津と書生の体験談であった。
卯の花餅でどれ程の人が救われたのかは分からない。せいぜい数名程度といったところだろう。ただ私は、なんとなく赤津政愛が好きだ。『一日十銭生活 実験告白』の中に描かれる彼の情熱は、他人から理解されるようなものではない。滑稽味すら感じてしまうものの、失敗しようとも謎の情熱を持ち続け、幾度も果敢に立ち上がる彼の姿には、なんとなく動かされるものもある。
卯の花餅を再現する
赤津に敬意を表し、私も卯の花餅を作って食べてみることにした。
ところが『一日十銭生活 実験告白』には、小麦375グラム、オカラ3.6kgで2日分の食料になるとしか書かれていない。詳しいレシピは不明である。そこが一番肝心なんじゃないかと思ってしまうが、赤津は変人だから仕方がない。
赤津政愛がそれほど凝ったことをしていたとも思えない。そんなわけで、適当に作ってみることにした。
まずオカラと小麦を混ぜ合わせる。すると白玉団子のような感触になる。
これを平に整形し焼いてみると、確かに食べられなくはないものができる。
舌触りは少々ざらつく上に、口の中がやたらと乾く。油をいろいろ試してみると、胡麻油で焼くのがベストだった。香ばしくて、なかなか美味い。主食に出来るのかというとかなり疑問が残るが、特に癖もなく不味くもなければ美味くもないといった食品だ。
あの書生が現代に生きていたなら、どうするかなとも考えた。食感的には、中華風の味付けが合いそうだ。オイスターソースと葱を混ぜて、有り合せの茗荷の梅酢漬け、ササミなどを入れて焼き上げてみた。
こちらはなかなか美味い。桜蝦などを混ぜれば、さらに美味くなりそうだ。肉の割合を増やせば、立派なご馳走になるんじゃないかと、あの書生ならば考えるんだろうなと想像をしてみたが、それじゃおからハンバーグじゃないかと気付いてしまった。というわけで、私の実験はこれで終りである。
実はおからの利用というのは、赤津以前にも何度も試みられていた。破棄されるおからの量を示し、これを国民が全て食べれはいくらの利益がある……というのは代用食の世界では定番の話題といってもいいくらいだ。しかしながら、それらは全て学者による机上の空論でしかない。自分は食べたくないけれど、貧乏人が食べればいいじゃないか……そんな話に意味などない。
赤津政愛は自らの手で開発した卯の花餅を、大喜びで食べ続けた。今や名前すら分からない、美味いものが大好きな書生の尽力も大きかったことだろう。とにかく二人の男が三年もの間、卯の花餅を食べ続けたことは確かだ。私はこの事実に、妙な感動を覚えてしまう。
ちなみに赤津政愛は、昭和十年に『大日本帝国仏所護念大本営』という大著を物している。その時にまだ卯の花餅を主食としていたのかはどうかは不明である。
参考文献 『一日十銭生活 実験告白』 赤津政愛 磯部甲陽堂 大正7(1918)年