かって隼小僧として名を馳せた人々がいた。良いことをしたわけではなく、掏摸や泥棒、強盗などなどで捕まった人たちである。隼小僧と名付けられた犯罪者の数は多く、私が確認しているだけで8名ほどに及ぶ。そんな隼小僧たちの中で、改心をした者の記録がふたつ残されている。
明治三二年、十一歳で初めて金を盗み浅草で少年掏摸(すり)団に仲間入り、その手口の鮮かさから隼小僧と呼ばれた少年がいたそうだ。逮捕されること二十八回、隼小僧にしては捕まりすぎではある。
捕まるたびに更生施設が就職先を紹介してくれるが、すぐクビになる。奉公に出された商店のお使いで外に出れば、用事のついでに掏摸で小遣い稼ぎ、天麩羅を食べ人力車で帰ってくる。余った金で店の主人に土産を買うような茶目っ気もあり、なんとも憎めない少年であるはあるが、危なくて雇っていられない。
捕まっては就職しクビになる。そんなことを二年ほど繰り返していたが、下町の居酒屋で働きはじめると、彼は才能を開花させる。
子供ながらも隼小僧と呼ばれるほどの人物である。仕事の飲み込みは早い。浅草で遊んでいたため、下町のお客の相手も立派にできる。金がなさそうな客がくれば、時にはお酒を少し多めについでやるといったサービスもする。仕事は面白い。なかなか面白い小僧だと、チップをくれるお客さんも増えていくから、お小遣いにも困らない。これで隼小僧は、すっぱり掏摸を止めてしまう。遊ぶ金があるのだから、掏摸などする必要もないってことなのだろう。
もう一人の隼小僧は明治後半に活躍した本格派の犯罪者で、窃盗や強盗はお手の物という男であった。前科三犯だが脱走に長けており、気が向くとすぐ脱走してしまう。
刑務所生活に飽きてしまった隼小僧は、この日もなんとなく脱走してしまい、非常線をやすやす突破してしまう。逃走中、フト世話になった看守の奥さんに挨拶しておこうという気になり、突破した非常線を再び突破する。明治の警察組織が貧弱だったとはいえ、この事実だけでも凄腕の男だということは理解できる。
ところがその日は、看守さんがたまたま家にいた。看守さんも一人で隼小僧を捕まえることなど出来ないと知っている。だから君を逃がすと立場上マズいからと頼むわけだが、それじゃ仕方ないですねと、隼小僧はあっさり監獄へと立ち戻ってしまうのである。なんとも妙な男で、善人なのか悪人なのか、よく分からない。事実、獄中ではかなり反抗的な態度を取っており、懲罰房に何度も入れられている。
隼小僧が変ったきっかけは、典獄の原善聴、教誨師の三森実言という二人の僧侶との出会いだった。隼小僧に人間的な魅力が十分に備わっていたのだろうか? 僧侶たちは仕事をはなれ、時に隼小僧と二時間も語りあったという。
囚人に文学好きな米田彦之助という男がいたのも大きかった。少年時代の隼小僧は、藤村やハイネの詩を読み川辺を歩くといったロマンチックなところのある少年だった。米田と出会い隼小僧は、かって持っていた文学への情熱をまだ持っていた少年時代を思い出す。
米田という男はなかなかの人物で、歌会始の勅題「社頭の杉」へ『千早ふる 大みやしろの みめぐみに 操かへせぬ 杉のむらだち』という歌を作り隼小僧を驚かせたりもしている。あてにはならぬが、いくつかの詩は藤村のものより優れていたとまで隼小僧は評している。
彼らとの出会いによって隼小僧は文学と宗教に目覚め、獄中の経験を執筆し文筆で生活しようと思い立つ。未来に希望が見えた隼小僧は、これで更生してしまい、最終的には模範囚にもなっている。
刑期を終えた米田は、また連絡すると言い残すと北海道へ渡り、隼小僧は出獄に獄中記を出版する。
第一編となっているが、続編が出た記録は残っていない。米田からの連絡が隼小僧へ届いたのかどうかも分からない。居酒屋で才能を発揮した隼小僧のその後もやはり謎のままである。かってなにかで隼小僧が、学校の用務員として働いていると読んだことがあるような気がするのだが、これに関する私の記憶もかなり曖昧で、どの隼小僧なのかすら分からない。ただ明治時代に、こういう人たちがいたということだけは事実である。
参考文献 光は闇より 巌村浩太郎 著 聚英閣 大正一〇(一九二一)年 読売新聞 明治三四(一九〇一)年 一二月二四日 朝刊