山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

趣味に高度なレベルが求められる理由

パッケージ化された趣味を始めてしまうと、競争や実益を強要させられたり、無意味に高いレベルを求められたり、道具に関しても一定の水準を求められたり、ルールを強要されたりする場合がある。実例を挙げると、ヤフー知恵袋で自転車の質問を検索すると、異常に性格の悪いカスみたいな回答を眺めることができます。そんなこんなで、趣味で鬱陶しい思いをする場合がたまにある。

こういった傾向は、ジャンルの平均的なレベルが向上させるという良い面もあるけど、その一方で趣味疲れの原因にもなる。これには歴史的な理由があると個人的には考えていて、私の趣味は明治時代の文化を調べることなので、ここでは明治時代のことを書いておきます。

ボート遊びという趣味があり、これが日本で始まったのは明治の十年あたり、旧大学南校が西洋捕鯨船のボートを二艇購入し、隅田川に浮べて遊んでいた。明治の一五年に高等師範学校が二艇のボートを浮べると、学校間の競争となる。翌年にはボートが四艇追加、学校別でレースが開催され、明治一七年にはさらに五艇追加、ついには大々的に競艇大会が開催される。この時には盛り上りすぎ、試合結果に不満を持った学生同士で乱闘騒ぎまでも起きている。

面白いのは競争を始めるまでの五年間、ボートは増えていないことで、いざ競争になると加速度的に増えていく。グラフで見てみるとこういう感じ。

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これはボートに限ったことではなく野球にしろ歌留多にしろ、明治の趣味はだいたいこういう感じで、競争になるとブームになる傾向がある。

スポーツに限った話をすると、もともと明治以前の日本には、純粋に楽しむためのスポーツというのがあんまりなかった。水泳なんかはかなりスポーツに近い雰囲気があったように思うけど、道になったり流になったりしいる。近代化され、スポーツをしましょうという雰囲気になっても、その意味があんまり理解できない。だから身体をベキクソに鍛え上げるだとか、あの学校の奴らを叩きのめすとか、そういう感じになってしまう。こういった傾向は今も生き残っていて、体育の時間に苦悩する学生を多量に生産している。勝ち負けや鍛錬が基準になっているんだから、一定のレベルが求められてしまう。

もうひとつの明治の趣味の傾向として、実益を求めるという特徴がある。分りやすい例だと、徒歩で旅行をすることによって、精神と肉体を鍛えるというものがある。旅行の実益と効率化の追及は進化し続け、最終的には家出のついでに徒歩旅行し、東京に出て出世をするというところにまで辿りついてしまう。実力があれば出世できるけど、なければ徒歩旅行の途中で死んでしまう。だから実力が求められる。

この他にもスポーツ限定だったり、文化系の趣味限定だったりで、いろいろ今に至るまで影響のある様式があるけど割愛、とにかく以上で触れた明治に発生した趣味の傾向は今もやはり生きていて、もう少し社会のレベルが上がらないと、趣味なのに高度なレベルが求められてしまう傾向は続くと思う。

こういうのは鬱陶しいから、なんとかしましょうという話になると思うんだけど、社会性のある趣味である限り難しい。だから社会性のない趣味で遊びましょうというのも『趣味の方法』のひとつなのです。