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山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

私はこういう人です

子規の旅行とバンカラ旅行

歴史の中で、偉大な旅人として名を残した人々がいる。

思い浮かぶのは松尾芭蕉か西行か、人それぞれ違うことだろうが、明治時代であれば正岡子規が、旅に生きた偉人とだといえる。

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俳人や歌人として活躍し、随筆や評論の世界でも手腕をふるい、近代文学に大きく貢献した正岡子規であるが、かってはただの旅行熱心な若者だった。明治二二年の春休みにも、東京都文京区から茨城県水戸市まで約一〇〇キロを徒歩で旅行している。

偉人になった若者の旅行

明治時代の若者たちは、多かれ少なかれ無茶な旅行を好んでした。例えば明治の初めにも、断食旅行というのがブームになっている。物を食べずに名勝古跡を巡ることで、お金をかけずに知見を広げることができる上に、体も鍛えられる……これが断食旅行の効能である。断食しながら歩き続けたところで強くなれるとは思えないのだが、そこは明治時代だ。若者は無謀な旅行で大いに身体を鍛えるべし……そんな風潮がまだまだあった。

江戸時代なら歩く旅行が当り前、ところが明治に入り交通機関が整備されると、旅はより安全で快適なものになってくる。これに飽き足らない若者たちは、文明開化の世の中であえて不便な旅行を始める。つまり徒歩旅行を再発見したというわけだ。観光名所を巡り知見を広めるだけでなく、自分の足で歩くことによって心身ともに鍛錬をする、これが徒歩旅行のメリットだ。

正岡子規もブームの徒歩旅行にチャレンジしたわけだが、何度か人力車に乗りなかなか良い宿屋にも泊っている。人力車の料金は、現代の貨幣価値だと8キロで1800円くらい、 金銭的な余裕があったことが伺える。ところがあまりに贅沢な旅行をすると気骨ある知人から、親から保護されている分際で……といった批判を受けてしまう。これは子規に限ったことでもなく、恵まれた環境にいた若者はみな同じ、だから彼らは身体や精神の鍛錬、新たな知識を手に入れるためといった言い訳をしながら、徒歩旅行を楽しんだ。

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若者の言い訳 『行商旅行 白眼子より』

この当時の子規はまだまだ元気な若者で、くたびれてヘロヘロになっているところで車屋さんから人力車に乗ってはどうかと誘われると、ヘソを曲げてタンカを切ってみたりもしている。

「なんだと、車に乗れと、俺さまたちを誰だと思うんだ。はばかりながら神田ッ子のその隣の本郷ッ子だよ、車をすすめるなら足元見て言いやがれ、一日に東海道を行き戻りしたとて、くたびれるようなお兄ィさんじゃないよ」(筆者により適宜修正)

立派なタンカではあるけれど、子規は本郷ッ子ではないし、残念ながら身体もそれほど強くはなかった。この旅行では、まだ肌寒い季節なのにシャツ一枚で舟に乗ってしまい、雨に打たれながら櫓をこいで身体を壊してしまう。この無茶な旅行は、後に子規が喀血するきっかけとなった。

明治の若者たちは、なぜ無茶な旅行をしてしまうのか? 今では死語だが、かってバンカラという言葉があった。バンカラを一言でいうと、男らしさを追及する人間のことである。身なりに気を使うのは、男らしくない。だからボロボロの服を着る。食べ物の美味い不味いを論じるのもダメ、エスカレートしすぎて壁土を食べてしまう人まで出てくる始末、もちろん電車は男らしくないし、雨を気にするのも卑怯である。こんなスタイルが流行していたから、旅行も自然に無茶になる。

バンカラの若者たちはどんどん男らしさを追及し、奇妙な旅行を開発する。金を使うというのは男らしくないと、無銭旅行というのも考案される。無銭旅行は大受けしたようで、何度かブームが起きている。もちろん子規も無銭旅行に挑戦しているが、徹底することができずに旅館に泊り、汽車にも乗っている。本物のバンカラに言わせれば軟弱者ということになってしまうのだろう。

バンカラの旅行は単純に乱暴なだけだが、少しだけバンカラ、そして子規とは違い金銭的な余裕のない若者たちが、どうしても旅行したくなり、創意工夫し開発した旅行法には面白いものが多い。その中から、二つ紹介してみよう。

バンカラによる夜間遠足

子規がこの世を去った明治三五年に『錬膽夜間遠足』を提唱した早田玄道という男がいる。夜間に旅行をすれば、金もかからず暑くもなく、奇妙な事件や事故に遭遇しやすいから肝っ玉が鍛えられるという理屈である。

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夜間遠足のメリット 『錬膽夜間遠足』

ただの思い付きレベルの旅行法ではあるが、玄道は勢いのある男である。その日の晩飯を済ましてしまうと、夜間遠足の素晴しさを証明するため、そのまま旅に出てしまう。旅程は東京都台東区から静岡県浜松市まで約250キロ、もちろん徒歩の旅行だ。

玄道はバンカラだから、計画性などない。そのまま夜通し歩き続けると神奈川に、夜明け前に友人の家まで辿り着くと、ドンドン戸を叩く。驚いて出てきた友人に夜間遠足の趣意を語りながら、朝飯を食べるとグーグー眠る。平日だから知人は仕事だ。玄道は夕方になると目を覚まし、帰宅した友人と晩飯を食べ酒を飲み良い気分で出発する。友人からすると迷惑でしかない。

こんな旅行を玄道は続けていたが、ひょんなことから無銭旅行になってしまう。

歩き疲れてたところで空小屋を見つけた玄道は、無断で入り込み眠ようとするが蚊に刺されてたまらない。仕方がないので集めた芝草に火を付け蚊避けにし、ぐっすり眠っていると小屋が焼けている。ヤバいとばかりに外に出ると、小屋は焼け落ち、おまけに荷物も金も失なってしまう。このトラブルが原因で、夜間徒歩旅行が、夜間徒歩無銭旅行となってしまった。

お金がなくては食事もできない。目的もなく駅をブラブラ歩いていると、スリが上品な奥さんの財布を抜き取るところを発見する。バンカラの玄道は腕自慢の男であるから、その場で掏摸を取り抑えてしまう。そのお礼に奥さんが料理屋でもてなしてくれたため、夜になるまで暴飲暴食、酒の勢いで無銭で夜間遠足に出発……といった調子の旅行で、泥棒と格闘してみたり、謎の怪僧と交流したり、警察に捕まりそうになったりで、バンカラの玄道にとっては、大満足の旅行であったことだろう。

ただし夜だから、観光名所に行っても暗くてなんのことやら分からない。こればかり計算外だったらしい。

この夜間遠足、現代の感覚だとたいした旅行でもないように思えるが、なんといっても明治時代、夜間の徒歩旅行はかなり厳しいものだった。街灯なんてあまりないから、今と比べるとずっと夜は暗い。

夏は暑いし冬は寒く、もちろんコンビニなんてものもない。玄道が掏摸や泥棒と出会っていることからも分かるように、今よりずっと治安が悪い。

スマホでナビが当り前の現代とは全く違っていて、地図すらも持たず旅する人も多かった。迷えば通行人を待って、道を聞くしかない。それだけでなく、現代と比べるとありとあらゆる面で情報が足りない。徒歩旅行を満喫していたとある若者は、東京から信州の山奥へやってきて、せっかくだからと天麩羅蕎麦を注文する。しかし店主が天麩羅を知らない。現代の日本において、天麩羅を知らない人はほぼいない。

子規の徒歩旅行の数年後、明治の三〇年代になっても、まだまだそういう時代だった。

明治の夜は、現代よりもずっと暗くて不便で危険であった。あまり真似はしたくないが、夜間遠足が胆を鍛えるのに最適だったのは確かだろう。

勤労学生の行商旅行

もう一人は遊び半分ではなく、本気で鍛錬のために旅をした後に、息抜きで旅行へ出発してしまった男である。本気の鍛錬というのがよく分からないと思うので、少しだけ事情を解説しておこう。

明治時代から大正にかけて、地方のあまり裕福でない少年たちが、東京に出て一旗挙げるために旅行をするということがあった。明治の三〇年あたりだと、東京における学生の数は一二万人ほどだった。そのうち実家から学資を支給されているのが十万人、東京に家のある者、あるいは学生の格好をしたゴロツキが一六〇〇〇人、残りの四〇〇〇人は独力独行で学資と生活費を稼ぐ学生、この中に徒歩旅行で東京にやって来た若者が含まれる。

東京に来た若者たちは、あまりに無計画だった。今とは違ってアルバイトなどは少ない。新聞配達か牛乳配り、あるいは自分で商売をするしかない。だからほとんどの若者たちは、失敗してしまう。そんな中で、無謀にも無銭で山口県の実家を飛び出し、そのまま徒歩旅行をしながら東京へ、独力独学で早稲田大学を卒業してしまった男がいる。その名も白眼子、この人が発明したのが行商旅行である。

白眼子は東京にたどりつき、学校に入学した後は、文房具の行商をしながら学費を捻出していた。いわば一旗上げるための旅行の途上といった状況である。

ところがある年の夏休み、突然旅行へ行きたくなってしまう。山口から東京は一〇〇〇キロ近い距離がある。それだけ歩いたのならもう十分だろうと思うのだが、白眼子はどうしても旅行に行きたくてたまらない。しかしお金に余裕などない。どうすれば良いのかと考えた結果、行商旅行を思い付く。行商旅行というのはその名の通り、行商しながら旅行することである。

白眼子は、生活費はその日の利益から出すというルールを設定している。ものが売れれば贅沢ができるし、売れなければその日は飯抜き、今ならテレビの企画でありそうな旅行だ。

文房具を新たに仕入れた白眼子は、東京から東北地方をブラブラ歩くという目的で旅行へ出発する。

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流石に荷物は多い 『行商旅行 白眼子』

夜間遠足の無鉄砲な玄道とは違い、白眼子はかなり計画的だ。

手帳を取り出して、売上高を調べれば、東京を出て四日目、総計四円ばかりの売上高はあるが、利益は大概宿泊料に払って、残るところはわずかに三四十銭しかないのだ。三四十銭の利益は、今宵一夜の宿泊料には足るとしても、利益の残りは他日の準備に充てねばならず、つまる所、今日の費用はこれから稼ぎ出さねばならないのだ。

というように手帳で売り上げを管理している。旅の当初は苦戦したものの、本職の行商人であるから商売の駆引きを知っている。大きな家や役所、そして学校など売れるべくして売れる場所を巡りながら旅行を続ける。泥棒と格闘し、掏摸を取り抑えた玄道に比べると、白眼子は特に目覚しい活躍はしていないが、思い切りは良かったようで、東北旅行のついでに北海道にまで渡っている。ただし特に観光などはしていない。函館で商売をするも、思ったよりも景気が悪いと、三日もたたず本州へ帰っている。

計画性があるんだかないんだかよく分からないが、商売は上手い。各地を巡るうち、白眼子は大規模な工事の現場に出喰わす。工事を眺めるうちに、疲れたら甘いものが欲しくなるだろうと思い付き、ものは試しだとばかりに菓子を売りはじめる。これが大ウケで六日で四円ほどの利益、今のお金だと七万円程度だから、なかなかの儲けだといえよう。ただしその間、ずっと工事現場付近で商品を並べていて、特に観光などしていない。もう旅行だか商売だかよく分からない。

ひと月あまりも歩き続け、行商を続けた白眼子だが、旅の終りが近付くと、流石にヘトヘトに疲れていた。というわけで温泉に五日ほど療養、帰りは汽車を使って帰京する。これで儲けたお金はスッカラカン、なんだかよく分からない旅行だが、日頃から行商しながら大学へ通っていた白眼子にとっては、よい息抜きだったのだろう。

最後に若者たちのその後について、紹介しておこう。

子規の旅行好きは本物で、喀血の後も旅行を続け、新聞記者として遠く中国へも渡っている。しかし無茶がたたって、ついには脊椎(せきつい)カリエスとなる。寝たきりの生活を送り続けた子規だが、死ぬまで日本の近代文学に大きな影響を与え続けた。『錬膽夜間遠足』の早田は、後に中国新聞の記者として活躍をしたが詳細は不明、『行商旅行』の白眼子も関西で新聞記者となっている。その後のことはやはり不明であるが、それなりに活躍はしていたようだ。

子規と同じように旅行をした二人が、同じようにそこそこ優秀な新聞記者になっているのはなかなか面白い。明治時代の若者たちの、旅行で心身を鍛えるという建前も、まんざら嘘ではないのかもしれない。

参考資料

錬膽夜間遠足 早田玄道 著 大学館 明治三五(一九〇一)年

行商旅行 白眼子 著 大学館 明治三六(一九〇三)年